慌てた顔に、甘ったるい香り。
ははん、とは、眉をぴくりとも動かさずに納得した。













Rhapsody in Valentine









数分前のこと。鳴らしたインターホンの音は、外に聞こえるほどに高らかに響いた。つまり、その家に住む住人に聞こえないはずがないのに、耳障りな機械音に応える声は、しばらくやって来なかったのだ。人様の家の玄関の前、返ってくることのない返事を待ってぼんやりと立ち尽くす姿は、道行く人たちにどんなにか間抜けに映っていただろう、とは今になって自嘲した。


、ごめんね、今―。」

「わかってるよ、このにおいでね。」


口早に捲し立て、目の前に手を合わせる夏美をが遮る。どーれ、見せてもらおうかしら。おどけたように続けるは素早くブーツを脱ぐと家主である夏美よりも早くにキッチンへと向かった。後ろから追いかけてくる夏美の慌てた声など、まったくお構いなしだ。吉祥学園の御揃いの制服、スカートのプリーツを乱して、2人はキッチンに辿りつく。いっそう甘いかおりが強まって、先にそのかおりの発生源に辿りついたは感嘆してうなった。骨董品の鑑定団ばりに腕を組み、顎の先を何度がさすって、玄関からキッチンまでのレースに負けた夏美―息をきらせているのは、クラス替えで夏美と同じクラスになった生徒たちが夏の運動会の勝利を確信するほどの運動神経を誇るくらいなのだから、その短い距離を走ったためではない。つまり、動揺のせいだ。―を、自慢げな顔で振り向く。


「気合はいってんねー、これは。」

「ん、な、なに言ってんのよ!!」

「こりゃあ喜ぶよ、彼も。」


ついでにくっついてしまえばいいのに。ぼそりと付け足された一言に、夏美は沸騰したやかんよろしく真っ赤になる。ああ、やかんではなく、例えるべきは恥ずかしがり屋の彼、だろうか。これは、違うのよ、これはね。たどたどしく言い訳を繰り返す夏美を横目に、は椅子に腰を下ろした。それにしても甘く、とろけてしまいそうなかおり、だ。


「あんたたちを見ていると、イライラしてきちゃうわ。イライラついでにたべちゃいそう、コレ。」

「だっ、だめ!」

「わかってるって、夏美かわいい。」


このかおり、玄関でも分かったくらいなのだから、家中に満たされているのだろう。庭にいる彼には、届いているだろうか?もし、このかおりに彼が気づいているのだとすれば、きっと、いや必ず、赤い彼はさらに赤くなってかおりの原因を察し、そしてそれが自分に手渡されるのかどうか、はたまたほかの男に贈られるものなのかどうか、テントの中をぐるぐると歩き回っているに違いない。その姿を想像して、それと今の夏美の反応も相まって、は噴き出した。おまけにこつん、と夏美の額を小突く。お互いを思う気持ちに、お互いが気づかないのは、なんとももどかしく不幸なことだ。はたから見ている分には、面白くもあれば腹立たしくもある。じりじりと距離を詰め行くS極とN極、一体いつになったら二つはふれあうのかと、やきもきしながら眺めている、その一人がなのである。


「アンタはどうなのよっ!」

「わたし?」

「こっそり準備してんじゃないのー?」


探るような視線、歯を見せて笑う夏美をいとも容易くかわして、は頬杖をついた。


「そーいうの、欲しがるとも思えないし、あげたいとも思えないし。」

「冷めてるう。」

「新婚さんはアツアツで、うらやましいわあ。」


あくび交じりにが答える。今日もひとり、ラボに閉じこもって陰鬱に研究に没頭しているであろう彼を思い浮かべ、そこに甘ったるいかおりを追加してみた。ううん、しっくりこない。彼には、クリスマスも、誕生日も、関係ない。桜が咲こうが猛吹雪が吹き荒れようが、構いっこなしだ。彼はそういう人なのだ。そもそも、節目ごとに感情の機微に触れ、愛を確認し合うことが、私たちのしたかったことだろうか。は首を傾げる。

甘いかおりにうっとりと目を細めるも、知らん顔で足早に通り過ぎるも、今日び、ヴァレンタインデーであることは揺らぐことなく。