眼鏡を忘れたのよ、とモニター越しのはぶっきらぼうに言い放った。荒い画面に、クリアな音声とは言えない声がスピーカーから響く。さようならと呟いた舌の根も乾かないうちの帰宅に、”通話”のボタンを人差し指で押し込みながら睦実は困ったように笑って、でもきっと面白い話がまた聞けるのだと少しこころを弾ませて、ちょっと待ってねと答えたのだった。ワンテンポ遅れて、小さな画面のなかのは頷いた。
なつみかん、プリン
勝手知った風に、は黒いスニーカーを後ろ向きに脱ぐと洗面所に向かった。言葉を発することは無かったが、の顔を見れば、言葉を交わす必要性を微塵も感じることは無かった。睦実はひとり、指をならす。正解、正解、ビンゴ、だ。から受け取ったビニール袋には、すぐ近くの曲がり角にあるコンビニのマークが、大きく印刷されている。ずっしりとした重さを感じるとともに、冷気が睦実をくすぐる。睦実が住むのは残念ながら豪邸ではなく、小さな、しかし1人暮らしには都合のいいくらいの広さを備えたアパートなのだ。玄関から冷蔵庫までは目と鼻の先ほどしか距離がない。睦実は音を立ててビニール袋の中を覗き込み、そして首を傾げ、でも相手はなのだからしょうがないのだと合点して袋ごと、それを冷蔵庫の真ん中の棚に仕舞い込んだ。洗面所からは水の跳ねる音が繰り返し聞こえていた。
はもうしばらく洗面台に張り付いたままであろう。あの顔を見られることが憚られるのならば、もう少し時間を置いてからやって来ればよかったものを、とまで考えて、しかし他に行き場の無いにとっては道端で通行人への晒し者になることと顔を伏せて睦実のアパートを訪問することとを天秤にかけた結果がこれであり、自分も見ず知らずの中晒し者にされるくらいならばこちらを選んだだろう、と考えを改めた睦実は、先ほどまでも腰を下ろしていたチェアに座り込んだ。すると、タイミングを見計らったかのように携帯電話の着信音が振動とともに睦実のポケットを揺らす。反射的に取り出したディスプレイに浮かぶ発信者名は只今絶賛問題児の彼であり、睦実は5分ほど前にチャイムの音に急かされてモニターを覗き込んだときと同様に眉を少し下げて、しかし唇は弧を描いて、ため息をついた。
「おい睦実。」
「はーい。何の用?こんな時間にかけてくるなんて珍しいね。」
「何の用、じゃねーよ。しらばっくれんな。こっちには全部オミトオシなんだぜぇ?」
「んー、何のことかなあ?」
くすり、と睦実は声を立てて答える。ひんやりと冷たい機械からも同じく聞こえてくる笑い声は、相手を挑発する音だ。
「をさっさとこっちに戻せよ。」
「別に俺が呼んだんじゃないよ、クルル。」
「いーから返せって言ってんだよ。」
「返すも何も。」
クルルに原因があって、それでは俺のところに逃げて来たんじゃないのかなー。
何度か繰り返して、耳元からは彼のいつもの笑い声が響いた。数を重ねるごとに無機質さを増していく声は、発信者の苛立ちを隠しきれずにいる。睦実は目を細めた。面白いことは三度の飯より大好物だ。しかし今回は面白いことこの上ないのに加えて、いつも以上にこころが弾む。睦実の唇が歪んだ。
(を、クルルから奪い取って、俺のものにしてしまえるのだ。)
「は俺の部屋にいる。もうクルル、君のところには戻るなと説き伏せることも、涙をぬぐって優しく慰めることも、そのまま押し倒して唇を奪ってしまうことも、今の俺には赤子の首を捻るのと同じくらいに容易いんだよ。」
笑い声が、弾かれたように止まる。
もう水の音も聞こえない。
「―睦実、ごめんね。…電話?」
「…ううん。大丈夫だよ。」
ドアの向こうから遠慮がちに除くに振り返りながら、睦実は携帯電話のオフボタンに親指を伸ばした。