ああ、あれは―

心臓が、急に自らの仕事を思い出したかのように拍動し始めた。
一瞬、目が釘づけになって、慌てて手元に視線を戻す。


「どうしたあ?」


間延びした声が耳元から響く。クルルから着用を命じられたピアスだ。受け取った時は、それこそ何の変哲もないピアスだと思ったのだが、もちろん仕掛けを施していない訳がなかった。彼から貰ったプレゼントには、代々巧妙に、悪く言えば、ではあるが、私を「監視するための装置」が隠されていた。クルルを模したぬいぐるみには小型カメラ、ピアスには超小型無線機、だ。挙句の果てには、いつの間にかすり替えられたコンタクトレンズには、超薄型透明カメラが仕掛けられていたのだから、もうお手上げである。


「おい、。」


先ほどより不機嫌になった声に、慌てて、しかし周りの人に聞き取られることのないレベルまで声を落として、応答した。


「なんでもない。」
「なんでもない、ねえ。パルス、バイタル、共に、尚も上昇中…。」



いつの間にそんなデータまで、声にしてしまいそうになるのを抑えて、手にしていた本を書架へ戻した。

クルルの、いつもの笑い声をバックミュージックに、私はそそくさと図書館を後にする。
空が、青い。まだコートを手放すことはできないが、マフラーは必要ない。そっと、取り出しかけた白く手触りの良いマフラーを、鞄に戻した。
新しい季節も、遠くはないのだ。
私は、まばゆい光に目を細めて歩き出した。





「友達だったの。」





赤信号をじっとみつめながら、口を開いた。


ショートカットがロングヘアに変わっていた。柔らかなブラウン。桃色に染まった頬に、縁どられた目元、長い睫だけは相変わらず。隣に寄り添うあの俗っぽい青年は、恋人、とかいうやつだろうか。

そういえば、私は彼女の私服を、ほとんど見たことがなかったと、今更ながら思った。記憶の中、思い出す彼女はいつも紺色のスカートを身に着けて、笑っていた。もう、あの日は戻ってこないのだ、と今の今になって気づいた。

私は話しかけなかった。
話しかけられなかった。
それはおろか、顔を背け、逃げるように立ち去った。


青信号が私に進め、と合図を下す。


思いでは、色褪せることこそあれど、無くなりはしないはずなのに。
過ごした時間は確かに存在したのに。

―変わってしまったものはなんだろう、失くしたものは



「…早く帰って来いよ。」



クルルの声が聞こえる。
私は走り出した。







理想論と現実論


が、袋小路にて