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ああ、またあのブザー音だ。
クルルは瞼の裏で、機械的で耳障りな音色の数の数えた。2つ目、1つ目からのインターバルは10秒ほどだっただろうか。ひどく体が怠く、瞼を持ち上げることさえ困難に思われた。今が一体何時なのかすらも分からなかったが、それを確かめるために意識を覚醒させる気になれなかった。いつにも増して無気力が体中を隅々まで蝕むのは、モーニングコールが例のブザー音だったからかもしれない。3つ目の音が聞こえるまでの時間は、そう長くはなかった。来訪者は、俺の居留守を分かっていやがる。4つ目からあとは、最早連続した長い音にしか聞こえなかった。ドアの向こうでは敵が、―濃い藍色の帽子を被ったカーマインの悪魔が、インターホンを連打しているに違いない。
―軍医監が将校相当クラスだってこと、お忘れなく!
思い出すだけでも虫唾が走る。
クルルはぎりり、と歯を噛みしめた。
「―少佐、グッドモーニング、です。」
背後から、突如女の声が―カーマインの悪魔の声だ!
クルルは跳ね起きた。寝耳に水、なんてもんじゃない。暗闇の背後にカーマイン悪魔だ。
「…テメー、どっから入りやがった。」
「ドアが開いていました。」
「開いてた、じゃねーだろ。開けたんだろ。」
「いいえ、開いたんです。まさか眠っているなんて、今何時だと思ってるんですか。」
#の、お馴染みの呆れ口調の直後、オフィスの照明がONになった。眩しさに目を細めた視界の端で、コンソールを滑る#の指が目に入る。続いて、モニターの電源が一斉に入り、その起動音ゆえに部屋が喧しくなった。いったいこの女は何を考えているのだろう。人のコンピュータを断りもなく操作するとは、まったくもっていい度胸をしている。クルルは椅子に座り直しながら、頭の中で、考え付くだけの悪態を#に浴びせかけ、それを口に出すことができずにいる、ただ椅子に座っているだけの自分に吐き気を催すだけの嫌悪感を抱いた。
―何故だ?俺はなぜこの女を、力尽くでも追い出そうとしないのだ?
「少佐、診察に来ました。それから、今はそろそろ日付の変わる頃、です。明日の出動時間、ご存じですか?」
「3時。」
「あと3時間ですよ。何考えてるんですか、眠っているなんて。隊員は既に出動準備に取り掛かっています。寝過ごした、なんて洒落にならないですよ。シンデレラも真っ青です。」
一気に捲し立てて、#はクルルの座る椅子のすぐ横に、丸椅子を引いてきて腰かけた。一切の無駄な動きなく、クルルの手首にバンドを巻きつけ、計測を始める。怒っているでもなく、気味悪がっているでもなく、ただただ呆れた顔で、バンドから繋がる計測器に視線を落とす#を眺めながら、そういえばこの女の呆れ顔以外の表情を見たことがないと、ぼんやりとそう思った。
―当たり前か。
出会って1日しか経っていない上に、まともな会話を交わしていない。おまけにまともな出会いとも言えない出会い方であった。
「…血圧低すぎです。測定不能です。」
「…残念なこった。」
測定器を手放したかと思えば、#は目にも止まらぬ速さでクルルの下まぶたを捲りあげ、首筋に手を添えた。クルルが抵抗する隙も与えず、その手を振り払う暇さえ与えない行為だった。クルルは何をするでもなく固まったまま、茫然と#を見つめていた。こいつは、今何をした?目の前にいるこの女は、一体ナニモンなんだ。測定器を鞄に仕舞い込むと、#は丸い瞳をクルルに向けた。
「まあ、命に別状は無さそうね、少佐。」
「アンタ…ナニモンなんだ。」
「何って…、ただの医者よ。これで満足かしら?」
肩を竦め、悪戯っぽい笑顔を見せる。
―コイツ…
「さ、我らが隊長。準備始めないと、さすがにやばいんじゃないかしら。」
現れた時と同じように、首筋に向かう手と同じく、#はあっという間に荷物をまとめ、ドアをくぐっていく。
―怪我人は最小限にね、少佐。
あまりの素早さに、残像だったのかとさえ思う。
#の笑顔が、脳裏をかすめた。