そうねえ、とは人差し指と中指に付着した生クリームを舐めとった。
分厚いビロードのカーテンからも光が漏れだす、つまり朝日が昇る時間になったという訳だ。テーブルの趣味の悪いレース編みの上、無造作に置かれたキャンドルは、途方もないくらいに太かったものだから、燃え尽きることはなかったのだ。隙間風が入るのか、キャンドルの炎が弾かれたようにちらつく。これだけ古い城だ、隙間風なんて朝のあいさつがおはようだってことと同じくらい、当たり前でなんでもないことだ。




MARK






命令を受けた犬のように大人しく待っていれば、の口から、そうねえの続きが聞けると思ったら大間違いだ。暖炉の上の古びた時計を見れば、これまた数世代前の流行であったろうアンティークなデザインの針は、しばらく前に盗み見た時と寸分たがぬ位置にあったが、(そういえば、あの時計は手動でネジを回す必要があるほど古いもののようだ。もしかしたらマグル製品なのかもしれないが。)感覚としては10分くらい経過しただろう。は相応のスピードで本の頁を捲りながら、忙しなく、クッキーにクリームをたっぷりと付けて口に運んでいる。様子から察するに、本は図書館から持ち出したもののようだ。僕は不必要に、本にクッキーの油分がついてしまうことを心配しながら、そんなことは微塵も顔に出さないよう努力して、羊皮紙に羽ペンを滑らせた。

もう3時間も前から同じことの繰り返しだ。

僕はを信用していないのではない、ただ、危険だと思うのだ。今のところ、このリスクに気が付いているのはおそらく世界中で僕一人であり、ということはつまり、に万一のことがあった場合に責任を感じるのも、後悔を感じることになるであろうのも僕なのだ。そしてだからこそ、をそうさせるほどの重大な理由があるのか、決定的な事柄があったのか、僕には聞く権利があるし、引き留める義務もある。大体、は昔からいつもこうだった。行くなと言われれば嬉々としてその場所に出かけていくし、触るなと言われればたちまち繊細で見事なガラス細工を粉々にして、皆を青ざめさせる子供だった。世間的に成人だと言われる今になっても、それは変わらない。子供のまま、大人になりきれていないんじゃなく、本人にはなるつもりがないような、そんな人だ。


、あいつだけは止めておいた方が。」


うーん、聞こえてくるのは生返事ばかり。煮え切らない態度は、拒絶の証だろうか?から視線を逸らさず、ティーカップに口を付ける。今晩、何杯目の紅茶なのか、今となっては屋敷しもべ妖精も分からないだろう。カップをソーサに戻すと、ぶつかり合ったふたつは、かちりと音を立てた。今度は腕時計に目を落とす、時刻は早朝、4時46分。これからベッドに潜り込むのは自殺行為だろう、ため息が漏れた。

分厚い本を閉じる時特有の、こもった音が聞こえた。

反射的に顔を上げると、とうとうと目が合った。談話室の中では、今やキャンドルと暖炉の炎だけが光源だった。温かみのある種類の色の明かりが、を立体的に照らし出す。はおもむろに腕を組と、数時間ぶりにまともなフレーズを吐き出した。


「腕を見せてよ。」


どきりと胸が高鳴った。何を言い出すのか、いや、にはきっとこんなこと分かっちゃいない、きっと。表面的には平静を保っているつもりだが、
実際のところはどうしようもなく取り乱しそうな自分を嫌悪したり、あまたの後悔が走馬灯のように駆け抜けていったりと、感情としては混沌そのものだった。眉を上げ、杖腕のセーターをまくり上げて見せる。


「違うでしょう、ドラコ。印のある腕がどっちなのかも覚えられないの?」


は一蹴して、小ばかにしたような調子でそう言い放った。

もう限界だった。



「ふざけるな!」



自分でも、いつの間にに胸倉に掴みかかったのか分からなくなっていた。全身の血液が沸騰して、瞬間的に頭に圧縮されたような感覚に、吐き気も、眩暈も、全力で襲いかかってきた。は悲しそうな目をして、僕を見ている。首を傾げ、ローブを引っ掴む僕の両手に、ほっそりとした掌を重ねた。ひんやりとした手だった。その時だった。首を傾げた拍子にのロングヘアが流れ、の首筋が露わに、なった。沸騰した血液は、氷を次々投げ入れられたかのように、急速に冷却されていく。全身から、力が抜けていくような。


「あの人を危険視するならあんただっておんなじよ。」


白い首筋に、赤い花がいくつも浮かぶ。まさかとは、思っていたけれど、確かにが談話室に帰ってきたのは、深夜日付が変わってからだったけれど、でもこんなことってあるのだろうか。
の首筋に刻印されたのが、蛇を吐き出す髑髏マークだったほうが、僕は救われたのだろうか。
でも、スネイプ先生だなんて!
右腕の印が、鈍く痛んだ気がした。